愛されて育った父親(母親)、責められて育った父親(母親)!

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愛されて育った父親(母親)は、親が子どもを憎むとか、子どもを責めるとか、子どもを恨むとか

ということは考えられないことである。

しかし子どもの試験で悪い点を取った時、受験に失敗をした時、何かの大会やコンクールで優勝できなかった時に子どもを責める母親や父親がいるということは事実であろう。

子どもが何かに失敗をして、子どもの心が傷ついている時に、

「なんであなたはもっと頑張らなかったのよ」と責める母親や父親がいることも事実である。

ふつうの親は、子どもが傷ついているので励ますのが当たり前と思っている。

心が落ち着いていればそう考えられる。

では何故、子どもが傷ついている時に、さらに子どもを責める親がいるのであろうか?

そのような親たちは、自分が屈辱を受けたと感じているようだ。

子どもの合格や優勝で、自分の心が癒されたかった。

そのような親は、心が不安だから、子どもの心まで考えて励ますことができなかった。

何か言い知れね悔しさで、子どもを責めることしか考えられなかった。

そのような親たちは、自分が小さい頃に、何か屈辱的な体験をして、

心が傷ついているのではないかと思う。

何か屈辱的な体験をして心が傷ついている親は、不安から解放されたくて追い求めざるをえない。

そして日常のささやかな喜びよりも大きな幸せを求めてしまう。

そのような親の心は執着へと向う。

試験が終わって、子どもが学校から帰ってくる。

愛されて育った母親が飲み物やおやつを差し出す。

「子どもに、何か飲む?お腹へってない?」

それは、子どもが家の外の世界で、よく頑張ったね。

よく無事で帰ってきてくれたね。

と子どもが家の外で、頑張ってきたことに理解を示す言葉である。

「子どもはお母さんが自分のためにしてくれたんだ」

そういう気持ちになることで、家に子どもの居場所ができる。

母親が、自分を認めてくれたことを理解することになる。

一方で、責められて育った母親は、子どもが元気に無事に帰ってくることよりも、

試験のでき具合が気になる。

子どもへの労りよりも、試験のでき具合が気になって、気になって仕方がない。

そして、母親は恐る恐る子どもに、試験のでき具合を尋ねる。

「あまりできなかった」と子どもが答える。

責められて育った母親の本性をむき出しにしながら、子どもの人格否定をしながら

ありとあらゆる手段で、子どもを責め続ける。

子どもが無事に帰ってきてくれたという喜びなど微塵もなく、

母親の心の欲求を満たしてくれなかった者としての存在となる。

子どもが生きて帰ってきた喜びよりも、試験のできが悪かったことに執着する。

愛されて育った母親には夢想だにできないことである。

当然に、母親の欲求を満たさない子どもの心を理解することもない。

母親が自分を認めてくれることを理解することなく、責められながら育つことになる。

責められて育つ子どもには、家に居場所がなくなる。

実は、子どもというのは、日常のちょっとした語らいの中で、心理的成長を遂げて行く。

子どもに飲み物を出さない母親は、家の中に心の居場所をつくれない。

帰ってきて飲み物を飲むことで、子どもの心が浄化されることを知らない。

飲み物を飲むことで、子どもは自分を認めてもらったと感じ、生き返る。

これは夫との関係でも同じことが言える。

子どもを夫に置き換えて夫婦関係を考えて頂ければと思う。

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